Author: Yu Shioji (塩地 優) Article type: Commentary (解説) Article number: 230002
この記事の「ローラーコースター」という言葉の定義は、下記によります。
遊園地の誕生
ローラーコースターというのは異質な存在である
ローラーコースターは、今となっては遊園地に当然のように存在する乗り物ですが、作られるようになった理由を考えようとすると、かなり異質な存在であることがわかります。
メリーゴーラウンドは騎馬を模していますし、バイキングやウェーブスインガーはブランコを大型化しています。オールドミル(イッツ・ア・スモールワールドの大元とお考え下さい)やウォーターシュートは、明らかに船がベースです。古典的な遊園地の乗り物は、何かベースとなるものがあって、それを大型化したり遊興化したりしているのです。一方で、ローラーコースターと、やはり同時期に発明された観覧車は、ベースとなる「何か」が判然としません。
ローラーコースターの乗り物としての背景にあるのは、明らかに「鉄道」です。ですが、鉄道とは違って人や物の輸送を目的とはしていません。単純に鉄道を遊興化した乗り物は、いわゆる豆汽車があります。ローラーコースターには、それとは異なる成因があるのです。
しかも、平地にも関わらず人工的に多数の山を作り出して、その起伏を利用して走行します。それなら最初から起伏のある土地に作れば良いのに(実際にそうしたコースターはTerrainと呼ばれ、数は少ないながら現在も作られています)、あえて大金を使ってまで人工的に高低差を作り、それを利用してコースを製作しているのです。
こんなことをしてまで、平地に娯楽を目的とした起伏を有する大規模な鉄道を敷設しなければならなかった理由を紐解いていくと、やはり遊園地の成り立ちというところまで行き着きます。
遊園地がなければローラーコースターは生まれない
ローラーコースターが誕生するためには、遊園地という「場」が必要です。
ローラーコースターというのは、多くの人に手軽にスリルを味わってもらいたいという思い(それが潜在的なものであっても)がなければ生まれません。例えば、少数の人が多くの労力をもとにスリルを味わえれば良いのであれば、先述のように起伏の激しい山にレールを敷設して鉄道を運行すれば良いのです。実際にこのようなタイプはローラーコースターの原型として後にご紹介しますが、現実に存在したのです。ですが、結局経営面で立ち行かなくなっています。
経営的には人がスリルや非日常を求めて集まる場がなければローラーコースターを設置するための費用を賄えませんし、人がスリルや非日常を求めて集まるためには、それらを体感できるアトラクションが集積している遊園地という場が必要なのです。
遊園地の起源はお祭りか庭園か
遊園地の起源を一体どこに求めるかは、議論のあるところです。
日本の遊園地文化史家(ものすごく狭いジャンルですが…)の間では、イギリス型の遊興庭園(プレジャーガーデン)を遊園地の起源とする説が一般的になっている[1,2]ようですが、海外の遊園地歴史研究家の中には、お祭りを起源とする説も見られます。
例えば[3]は、1133年から1855年までイギリス・ロンドン中心部にほど近いウェスト・スミスフィールドで行われていた聖バーソロミュー・フェアーという祝祭が起源だとしています。毎年8月に行われていたこのイベントは、もともとは宗教色の強い(と言いつつ商業的な意味合いもあったようですが)ものだったのですが、遅くとも1700年代にはショー形式の小屋があったり、スイング型の遊具が設置されていたり、今で言う遊園地っぽいイベントへと変化していたようです。
このどちらを起源とするかは立場の違いでしかありません。例えば上述の文化史家の観点では、日本の遊園地史から見れば「地域に根ざしていて、かつ人々が娯楽を求めて集まる空間」であることに意味がありますので、遊興庭園を起源とするのも理解できます。もちろん、日本の遊園地文化史家が知らなかっただけ、ということもなくて、[1]の著者である中藤保則氏は[4]のコラムで、聖バーソロミュー・フェアーに触れています。
ここでは、単に「娯楽目的の乗り物が多数設置される場」としての遊園地の起源を知りたいだけですから、そういう意味ではより早く乗り物が設置されていた祝祭の場を起源とするのが適切でしょう。
どちらかというと着目すべきは、イギリス型プレジャーガーデンの典型例とされるヴォクソール・プレジャー・ガーデン(公園としては現存)も、聖バーソロミュー・フェアーも、どちらもロンドン中心部にほど近いところにあって、しかも娯楽色が強まったのは18世紀のことだったという点です。
この時代のロンドンに、遊園地が形成される文化的背景があったことは明らかです。
遊園地形成の文化的背景
18世紀のイギリスは、政治的には17世紀の革命が一段落し、連合王国制と議会政治のもとで一応の落ち着きを見ていた時代です。世界の覇権はスペイン・ポルトガルからオランダを経てイギリス・フランスへと移っていた時代。アメリカやインドに広大な植民地を持ち、大量に生産していた綿花とそれを原料とした織物の貿易や植民地からの輸入品を利用して、かなりの富を得ています。少なくとも富裕層にはかなりの経済的余裕があります。
文化的にはロビンソン・クルーソーやガリバー旅行記の時代。これらは風刺的な意味合いが多分にあったにしても、それを伝えるための舞台として冒険譚を選んだことは、冒険的な非日常を求める地合いが人々の中にあったことを示しています。18世紀後半になるとゴシック小説も流行しますので、新しいもの、怪奇なものを求める風潮があったことが読み取れます。
イギリスでは部分的な波及にとどまりますが、18世紀はロココの時代でもありますから、豪奢でありながらやわらかみのあるデザインが好まれます。こうしたデザインはゆったりとした時間の流れも意識させますから、人が余暇や遊興のために集まる「場」としては、喧騒の街中よりも、庭園の方が好まれたのかもしれません。
音楽的にはヴィヴァルディやバッハなど、チェンバロの金属音が響き宮廷や教会をイメージさせるようなバロックから、モーツァルトに代表される雄大な自然を思い浮かべさせるような古典派へと移り変わる時代です。
ルネサンス以降に発展してきた理性的、論理的なものの見方が花開き、自然を自然として目で見えているように捉え、それを表現しようとしていました。理性的、論理的な考えというのは、ときに相反する欲望を生みます。理性をふっとばして感情だけで楽しみたい、という思いも人々の中に宿っていたのではないでしょうか。
17世紀から18世紀にかけては、階級に関わらず人々がコーヒーハウスに集っていて、更に18世紀半ばからはその文化がお茶の時間へと移っていきます。街に住む人々が集う風習が既に形成されていたことを示しています。
18世紀はじめには蒸気機関の原型が作られ、紡績機や織機も改良されていきましたから、機械的な技術も高まってきた時代です。機械を利用した遊具を作るベースもできています。さらにこれらの技術は一部の人々に富をもたらすとともに、時間的余裕も生んでいたと考えられます。
さらにロンドンの人口は、1750年から1850年にかけて、67万人から236万人へと、4倍近くに増えています。急速な都市化の進展と人口集中が人々にストレスをもたらし、日常の中に息抜き・ガス抜きが求められていたと思われます。特に当時はまだ蒸気機関車が作られていませんから、ロンドンの外へ出る手段は馬車か馬。例えば安息日の日曜日に1日で郊外に出かけて、冒険のような体験をすることは現実的でなかったと思われます。
都市部へ集まってきた人々の過ごし方は、第一次産業から第二次産業へと働き口が変わったことで、季節や時期ごとに異なる作業をしていた時代から、来る日も来る日も同じ作業を繰り返す代わり映えのしない日々へと変化しています。たとえジェントリら富裕層であっても、季節ごとの変化がある第一次産業と比べれば、仕事の内容に変化は乏しかったでしょうし、法制度が整っていない時代の、人との関係によって成立するビジネスにはストレスも多くあったと思います。彼らがちょっとした休息や息抜きとして、単なる庭園ではなく遊具機械を備えたイベント、あるいは刺激的な見世物のある庭園を求めたのは、必然だったのかもしれません。
遊園地を作り出したのは、産業革命、ひいてはその遠因となった富の集積、経済の自由の確立、そして農業革命による人余りだったのです。
中心地の移動
こうしてロンドンで遊具を備えたイベントや庭園が定着していきますが、人気が集まりすぎたことで、行政によって「待った」がかかります。
ロンドンにおける都市化や工業化によるストレスの蓄積は、アルコールへの逃避も誘因します。それによる治安の悪化や生産性の低下を恐れる行政側は、アルコールではなく紅茶を飲むことを奨励するなど、アルコールの飲用を抑制しようとします。
こうした中で、酔っ払って楽しむことが当たり前だったイベントや、あるいはお酒を飲んで女性を引っ掛けることを目的に訪れる人の多かったプレジャーガーデンへの風当たりは強くなっていきます。人々がごった返すことによってスリが発生しやすくなったり、あるいは娼婦が客引きのシマとして利用したり。これらの治安悪化要因もあって、プレジャーガーデンは夜間営業を禁止され、ヴォクソール・プレジャー・ガーデンは経営悪化により1850年に閉園。聖バーソロミュー・フェアーも市政により1855年をもって開催終了となりました。
ただ、諸外国からの視察も多数訪れたと思われるこれらの遊園は、海を渡って西欧で模倣されるようになります。特にドーバー海峡を隔てた対岸のフランスでは多くの遊興施設が作られます。
その頃のフランスは、18世紀末にフランス革命が起きて混乱していた時代。19世紀に入ってナポレオンが台頭、周辺諸国に遠征を繰り返します。遠征費もさることながら、徴兵制度が使われていますから人的にも疲弊していたはず。にもかかわらず、なのか、あるいはだからこそそのストレスからなのか、様々な工夫を凝らした遊具が設置されています。もちろん、産業革命はフランスにも波及していますから、ロンドンと同様にそれに伴って都市化されたことによるストレスもあったでしょう。
こうして、ローラーコースターの原型を生み出すために必要な、遊園地という「場」が形成されていきました。
ちなみに、海を渡ってヨーロッパ大陸へともたらされた遊具や遊興施設の集合体は、さらに進化を遂げていきます。1つの形態は、移動遊園地。大陸中を移動しながら、様々な場所に一定期間遊園地を設けます。オクトーバーフェストのような期間限定イベントに登場するアトラクションも、移動遊園地の1つの形態と言えます。
また、産業革命によりもたらされた技術革新にともなって、新技術を展示する場として国際博覧会が開かれるようになったのは、19世紀なかばの時代。博覧会に人を集めるための集団として、遊具が設置されるようになっていきます。フランスはこの頃、クーデターによってナポレオン3世が皇帝となって、同時に経済的に躍進。都市計画のもと現在のパリの町並みが作られはじめます。エッフェル塔が作られたパリ万博が19世紀後半。この頃には、アトラクションの設置は当然のように行われていたようです。
鉄道技術の進展
ローラーコースターを作るために、鉄道の技術が活用されたことは疑う余地がないでしょう。当然、現代型のローラーコースターが生み出されるためには、鉄道技術の進展を待たねばなりません。その鉄道技術の背景を駆け足で追ってみましょう。
ローラーコースター「風」のライドに鉄道技術はいらない
まず、現代型のローラーコースターではなくて、ローラーコースター「風」のライドを求めるなら、鉄道技術は必要ないという点に注意が必要です。ローラーコースター「風」というのは、例えば坂道を台車に乗って転がり降りるような、そんなイメージです。ただそれだけであれば、人工的に坂を作る土木技術と、車輪を作る技術さえあればできてしまいます。
車輪というのは紀元前3500年には既に存在しています。巨大な坂を人工的に作り出す土木技術も、古代ローマには間違いなくあったでしょう。その2つの技術があれば、坂道を転がり降りて遊んでいた人がいたであろうことは、想像に難くありません。そういう意味で、記録には残っていないだけでローラーコースター「風」の遊びは紀元前からあったのではないかと考えられます。
ただ、重要なのは、それらは現代型のローラーコースターには単純には結びつかないということです。現代型のローラーコースターは、摩擦によるエネルギーの減衰が極めて少なくて、アップダウンを何度も繰り返すことができます。また、急カーブを曲がることもできます。急カーブに関してはローラーコースター独自の技術発展も関係してくるのですが、少なくとも緩いカーブを作れたことと、摩擦が少ないことには鉄道の技術が効いているのです。そうした現代型のローラーコースターであって、かつ文献に明示されているものしか歴史として語れないために、ローラーコースターの歴史本ではローラーコースターの原型は19世紀に作られた、というような表現がされます。
産業革命と鉄道技術の進展
産業革命のさなかに蒸気機関が発明・改良されると、蒸気機関は一気に蒸気船、蒸気機関車等に搭載されはじめます。
18世紀半ば頃から多くの積荷に対応し、かつ摩擦を低減するという目的もおそらくあって、鉄の板を張ったレールが用いられはじめます。それまで木製のレールが使われていたところから鉄のレールへと置き換わりはじめましたので、ここで「鉄道」が生まれたことになります。
19世紀初頭に蒸気機関車が開発されると、陸地における大量の物資輸送の担い手として、あるいは人員輸送目的に、大量の機関車が製造・導入されはじめます。1830年頃までには技術的に成熟していて、現在のようなフリンジ付きの鉄車輪に鉄のレール、蒸気機関車の形状等々が出来上がっていたようです。時速は58キロにも達しています。
19世紀なかばには鉄道技術は十分に成熟し、他の用途への転用も容易に考えられる時代になっていました。これがどう転用されたのか、というのは本シリーズの後の回で、歴史の順を追って確認していくことにしましょう。
自動車はあまり影響を及ぼしていない
鉄道に対して自動車は、高摩擦のタイヤを利用して自在に加減速・旋回ができる乗り物です。重力を最大限に利用して、できるだけエネルギーロス無く走行したいローラーコースターとは相容れない技術です(後にゴムタイヤの技術も使われることにはなりますが、だいぶ後の時代の話です)。
しかも、T型フォードの発売が1908年。これによってモータリゼーションが進展し、馬車がようやく自動車に置き換えられていくことになります。1884年に現代型ローラーコースターの元祖が作られたことを考えますと、やはり時代的にも関係性は希薄です。
ローラーコースターの原型と歴史の断絶
西欧の遊興施設に設置された、ローラーコースターのような乗り物について、その歴史をたどってみましょう。ただし、あくまでもローラーコースター「のような」乗り物であって、現代型ローラーコースターの原型とはなっていません。この時代のローラーコースターは、進化が止まって歴史的にも地理的にも断絶されてしまいます。現在のローラーコースターとは、歴史的にはつながっていないのです。が、記録としてはしっかり残っていますので、断絶に至るまでの歴史を眺めてみましょう。なお、この項目はほぼ[5]の情報をもとにしています。
摩擦の少ないすべり台
上にも述べましたとおり、ローラーコースターは、技術的にはエネルギー散逸との戦いです。いかにコースとの接触によって発散してしまうエネルギーを抑制するかが、良いコースターを作れるかどうかのカギになります。
エネルギー散逸を低減する最も原始的な方法は、地面を低摩擦係数の物質で覆ってしまうことです。簡単なのは水を撒いてしまうことで、これはウォーターシュートやウォータースライダーで使われる技術です。一方、より摩擦係数を低減する方法として、水ではなくて氷を使うことが考えられます。氷を使うには、寒い気候が必要です。しかも、寒すぎると氷が固くなって速度が出なくなりますので、寒すぎてもいけません。スケートリンクなどでは、室温-7℃~-3℃くらいが適温のようです。
冬場にその温度域になるのが、モスクワやサンクトペテルブルグなど、現在のロシアの都市でした(現フィンランドのヘルシンキは当時はまだ小さな町だったため都市型大衆娯楽が発展するような状況ではありませんし、ノルウェーのオスロ、スウェーデンのストックホルム、デンマークのコペンハーゲンあたりでは温度が高すぎますので、人口と気候の条件を満たしていたのが現在のロシアくらいなのです)。彼らは木組みで坂を作り、その上に土を盛った上で氷を張りました。その上を、氷のブロックを彫り込んで座面にして、そこにわらを敷いたものに乗って滑っていたようです。
これが15~16世紀頃と言われています。その頃サンクトペテルブルグの都市はまだ建設されていなかったはずなのですが、ヨーロッパへの交通の要衝として、周辺は栄えていたようです。ちなみに17世紀のサンクトペテルブルグ周辺はスウェーデンの領地でした。
氷の山は娯楽の少ない冬の遊びとして人気を呼び、数多く作られます。中には、家の中に作ってしまう人もいたほどだとか(もちろん氷は張らずに、木製の滑り台を磨いたものです)。
落下角度は50度オーバー。そこから滑らかに水平に戻り、地面を滑走していきます。落下角度もさることながら、地面と滑らかに接続されているのは、素晴らしい施工技術。
サンクトペテルブルグ周辺では、滑走した先にもう1つ、反対向きのすべり台が作られていたようです。これはおそらく、帰りにライドをもって戻る労力を惜しむとともに、ついでに楽しむ事ができるように作られたのではないかと考えられます。
冬場の娯楽としてだけでは飽き足らず、1757年には車輪を付けた乗り物に乗って坂を下る、年中対応バージョンも作られていたようです[6]。ただし、そちらは事故が起きたあとは廃れていったとのことですが、1774年にはもう1機作られたようです。いずれもキャメルバック(コース途中の山。坂を登って下るエレメントです。)を1つ備えていることに特徴があります。
こうして人々は、坂を下る楽しみとともに、上り坂で自然に減速していく楽しみを覚えます。高さをうまく調整していれば、上り坂を登りきって平坦になるところでフワリと宙に浮かぶような感覚(エアタイム)を味わえたかもしれません。あるいは上り坂を大きく作れば、2つの坂の間を往復するシャトル型のライドのような楽しみ方もできたかもしれません。これこそが、人工的に作られた斜面でローラーコースターらしい楽しみを人類が味わった、最初の例なのでしょう。
ロシアの山
サンクトペテルブルグはヨーロッパへの玄関口でした。湾の奥に位置していて大きな中州もあり、不凍港でこそありませんが優れた港です。
バルト海を介してドイツまでアプローチできますし、エーレ海峡を超えればコペンハーゲンを超えて北海からオランダ・イギリス・フランスへと到達します。
このため、サンクトペテルブルグの文化は商人や旅行者(当時は旅行者自体はごく少数ですが、旅行をするとその記録を本などにして残す人が多かった)を介してヨーロッパへと容易に伝わります。
サンクトペテルブルグ周辺で大人気となっていた氷の山は、「ロシアの山」としてフランスへと伝わりました。しかしながら、フランスは良い氷の山を作れる気候にありません。そこで、車輪を使ったタイプが作られます。
1号機は1804年。その名も”Les Montagnes Russes” (ロシアの山)。ただし、これはただの車輪付きライドに乗って下る滑り台。安全装置も何もなく、事故が相次いだようです。とはいえ、ロシアの山にはスリルが求められていたためか、事故があったという情報によって、逆にお客さんが増えたそうです。
1817年に作られた”Les Montagnes Russes a Belleville”(ベルヴィルのロシアの山)は、車両が脱線しない仕組みを備えていました。車両が走行するコースの脇に、低めの壁を作って、そこに窪みを彫りました。ライドの車軸を横に少し長くしておいて、車両からはみ出た車軸を窪みにはめ込み、車両が横にも上下にも脱線できないようにしたのです。シンプルながらも賢い仕組みです。2つの山が対称に作られた、古典的なサンクトペテルブルグ・タイプ。
同じく1817年には、”Promenades Aeriennes”(エアリアル・ウォーク)がパリのBeaujon gardenに作られます。美しいカーブやキャメルバックもさることながら、コースがループを描いていることにも着目すべきです。わざわざスタート位置までライドを持って帰らずとも、勝手に走って戻ってきてくれるのです。とはいえ、上り坂は、当初は係員が押して登っていたとのこと(場合によっては乗客が乗ったまま!)。1826年にはロープで巻き上げる機構も追加されました。さらには、左右のコース同時にスタートしていたため、観客は左右どちらが先に降りてくるか、賭けを行っていたとか。日本ではあまり馴染みがありませんが、2つのコース同時にスタートするレーシングタイプもしくはツインと呼ばれるコースターがありまして(日本ではグリーンランドのミルキーウェイと、鈴鹿サーキットのGP Racersくらいでしょうか)、エアリアル・ウォークはその先駆けにもなっているのです。
フランス版ローラーコースターの成熟
その後しばらくロシアの山ブームは続き、エジプトの山やスイスの山など、まがい物がたくさん作られました。ボートを使って坂を下るアトラクションも製作されています。これはウォーターシュート(現代日本でいうと、スプラッシュ・マウンテンやジュラシックパーク・ザ・ライドの最後のドロップだけのようなイメージのアトラクションです。古典的なバージョンはつい数年前まで横浜・八景島シーパラダイスにスプラッシュートとして残っていました。)の原点となった(その後の製作者がこれを参考にしたかどうかはともかく)ものです。
1846年には、ついに垂直ループが作られてしまいます。この時代、ボールをレールに沿って転がすおもちゃが流行っていたそうで、そのコースが左右に斜面があって、真ん中にループがある形状をしていました。今で言うシャトルループのようなコース形状です。
1846年、フランス・パリに設置されたループコースターは、屋根の高い建物の2階、約10 mの高さから下っていき、直径4 m弱のループを通過して、再び坂を登って下車する、というもの。当時の人々は、まともに生きたまま通過できるのかどうか、疑心暗鬼です。ループで落下する可能性だけでなく、例えばループを通過すると異次元に行ってしまったり、記憶がなくなったりといったことを想像してしまっていたのではないかと思います。そういうわけで、まずは砂袋で試運転をして、さらにサルを使って試運転をしてから、勇気のある人が乗車して、それでようやく一般の人も乗り始める、という状況でした。
その後、ル・ハーブル、ボルドー、リヨンにも設置されたようですが、乗車しようと思う人が多くなかったのか、いずれも短期間で営業を終了してしまったとのことです。1865年にも再度建設しようとする動きがあったようですが、最初の走行で脱線したため、警察によって運転を禁止されてしまいました。
ちなみに、1846年以前にイギリスに作られたという記録もあるようなのですが、それはループ直径が2 mとなっているようで、流石に怪しい。ここまでループ径が小さいと頭の位置が中心近くなりますので人への負荷はそれほど大きくないと予想されますが、短期間のトライが行われただけで、商業営業はしていなかったようです。
さて、適当に設計されたループコースターで常に問題になるのが、人体への負荷です。現代では、速度の高いループ下部ではカーブを緩やかに、速度が低下するループ上部ではカーブをきつくすることで、人体の負荷を低減しています。これをせずに真円に近いループを作ってしまうと、ループ下部で過度の遠心力が、急激にかかってしまいます。それによって首にむち打ちなどの症状が出てしまうのです。よく誤解されますが、むち打ちは単なる加速度だけではなく、加速度の変化スピード(加速度の時間微分)が大きな原因となります。簡単に言うと、遠心力より、遠心力のかかり方、つまり「衝撃」も要因の1つなのです。
今回の場合は、直径4 mに対して、人の頭はレールから高さ1 mくらいのところに来ますから、頭の回転直径は2 m。目を瞑って乗ったら、おそらく急激に体の向きが変わるのに首が追いつかず、むち打ちになってしまうでしょう。にもかかわらず、怪我の記録が無いようなのです。当時の人々はループに強い恐怖心を抱いていて、首が強張っていたであろうことが、無事に乗車できていた要因の1つではないかと思います(単に怪我の記録が無いだけかもしれませんが)。
もう1つ、建築技術の未熟さにも要因がありそうです。当時のループはおもちゃを真似て作られていましたので、ループ部に柱や補強などが一切ありません。ここを重量の重い車両と乗客が通過して、さらに大きな遠心力がかかるとなると、ループは相当にたわんでいたはずです。このために見た目のループ径よりも走行するループ径が大きく、かつループ下部で遠心力が大きくなってたわみも大きくなりますので、結果的に歪んだループを作れていたのではないかと思います。ただし、ただループを地上に自立させてしまうとたわみによって地面に激突するような動きになってしまいます。ループ前後の少し高さのあるところをやや高めの支柱で支えて、ループ自体は地面からは浮かせていたのではないかと思います。これを作った人は、1833年にはアイデアを思いついていて、実現までに13年かかったとありますので、試行錯誤をして工夫したのでしょう。
時代の断絶
その後、フランスに端を発するローラーコースターっぽい乗り物ブームは急速に収束してしまいます。
もちろん、年を経るごとに地理的に遠い地域へ伝わっていく、という経緯はたどるのですが、新しいものが作られなくなっていくのです。
その理由の1つは、鉄道の普及と自動車の誕生でしょう。乗り物に速度を求めるだけなら、それらで事足りるようになってしまいました。また、ローラーコースターっぽい乗り物に求められていたのは、おそらく目新しい乗り物という魅力。まだまだスリルとしても、乗る楽しみとしても未熟なコース形状でしたから、飽きられるとそれでお終い、となってしまったのです。さらに、新たな乗り物が次から次へと生まれる時代背景も影響して、乗り物を工夫して良くしていくような設計・建築者たちが、他の新しい乗り物を作る方向へと目を向けていったのではないでしょうか。こうして、ヨーロッパにおけるローラーコースターっぽい乗り物は時代遅れのものとなって、進化は停止してしまいます。
ここでローラーコースターの歴史はヨーロッパから、アメリカへと移っていくことになります。
ちなみに、アメリカでローラーコースターが生まれてからは、ヨーロッパにも多数設置されるようになります。しかしながら、そのほとんどはアメリカ人設計者によるもの。ヨーロッパオリジナルのローラーコースターがアメリカにも輸出されるようなオリジナリティと技術を獲得するのは、1960年代になってからのことです。ヨーロッパにおけるローラーコースターっぽい乗り物の進化が途絶えたことは、アメリカに大きなアドバンテージを与えることとなってしまいます。
本シリーズ第2回では、いよいよ鉄道がローラーコースターに転用されていく流れを解説します。
参考文献
[1] 「遊園地の文化史」 中藤保則、自由現代社、1984年刊
[2] 「日本の遊園地」橋爪紳也、講談社、2000年刊
[3] “The Amusement Park – 900 years of thrills and spills, and the dreamers and schemers who built them,” Stephen M. Silverman, Black Dog and Leventhal Publishers (2019).
[4] 「遊園地・夢案内」RED BOX、光文社、1986年 刊
[5] “The Incredible Scream Machine – A History of the Roller Coaster,” Robert Cartmell, Amusement Park Books, Inc. and the Bowling Green State University Popular Press (1987).
[6] https://anashina.com/russkie-gorki/ (2020/6/11閲覧。ロシア語のため、Google翻訳を介して読んでいます。)
引用方法
引用時は、下記を明記してください。
Yu Shioji, J. Amusement Park (2023) 230002.
利益相反
本稿に関わる利益相反はありません。
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