ローラーコースターの歴史7 – 木製からスチールへ

Author: Yu Shioji (塩地 優) 
Article type: Commentary (解説) 
Article number: 230008

ローラーコースターは、技術もスリルも木製の範囲では1920年代に行きつくところまで行きついた後、1930年代からは冬の時代を迎えました。

第二次大戦後の1950年代もまだ冬の時代は続くのですが、技術的には一大変革期を迎えます。

いわゆる「スチールコースター」が生まれたのです。

そのスチールコースターが生まれたのはディズニーランドだった、ということをご存知でしたでしょうか。なぜディズニーはスチールコースターを生み出したのか、どのようにしてスチールコースターのアイデアが生まれたのか、その背景も考察していきたいと思います。

 

ローラーコースターは2種に分類される

ローラーコースターは、大きく2種に分けることができます。そう聞くと、「木製」と「鉄製」に分類したくなりますが、この分類にはあまり意味がありません。

素材で分けると、境界線が曖昧になってしまいます。例えば、木製コースターでもレールは鋼です(ちょっとややこしいのですが、一般に使われている「鉄」は、材料の名前としては鋼(はがね)です。材料の名前として鉄という言葉を用いる場合は、純鉄を指してしまいます。純鉄は構造材に不向きな、比較的柔らかい材料です)。ボルトも鋼を用いますし、場合によっては骨組みの一部に鋼を用いる場合があります。前回の記事でもご紹介した通り、1920年代にトレイヴァーが製作した一部のローラーコースターは、骨組みまで鋼でした。ですが、これらはいずれも乗り心地の面や、骨組みの組み方では木製コースターに分類されてもおかしくないものです。

 

では、ローラーコースターを2種に分けようと思ったら、どのように分類するのが良いのでしょうか。

一般には、レール形状で分類を行います。平たい鋼の板を用いるコースターと、円筒型(チューブ状)の鋼製レールを用いるコースターに分けるのです[1]。

このようにすると、古い時代(~1940年代)のローラーコースターはすべて平型レールに分類されます。現代の木製コースターも平型レールに分類される一方、いわゆる「スチールコースター」はほぼすべて円筒型レールに分類されます。

円筒型レール

円筒型レールと車輪。画像はパブリックドメインのため転載可、この画像のダウンロード元はwikipedia

ただし、一部に例外が発生します。

例えば、富士急ハイランドの「ド・ドドンパ」はスチールコースターに分類されるべきですが、加速度を優先してゴムタイヤを採用しているため、レールは平型(正確には角型)です。こうした角型のレールは「チャンネルレール」と呼ばれていて、日本では古いスチールコースターに多く見られます。このため、厳密には薄く平たい鋼板を木あるいは鋼に張り付けて作られたレールと、鋼管やH字鋼などの鋼のみで構成されたレールとに分類するのが正確です。

また、ナガシマスパーランドの「白鯨」のようなハイブリッドコースターは、分類がかなり難しいです。レールは平型ではありますが、乗り心地やコースレイアウトの面では明らかに円筒型に近いです。一方で、骨格構造は当然ながら平型レールのコースターに近いものがあります。それぞれの良いとこ取りを狙ったコースターですから、分類に悩むのは当然といえば当然なのですが、シンプルにレール形状だけから平型に分類するのはいかがなものかと思うコースターです。

スチールコースターでもレールが1本しかないモノレール型というのも最近出現していて、これもまた平型でも円筒型でもないレール形状をしているため、分類に悩みます。

これらはややこしいので、「円筒型っぽい新ジャンル」として別分類にしてしまうのが良いと思いますが、少なくとも歴史のお話には登場してきませんので、ここでは深く論じないことにしましょう。

 

以降では、円筒型レールが生まれた背景と、その特徴を論じていきたいと思います。

 

テーマパークの盛衰とディズニーランドの登場

テーマパーク史は本記事の主題ではないのですが、円筒型レールのローラーコースターについて語る上では、ザックリと触れておかなければなりません。

現代型テーマパークの始祖は、ニューヨークのコニー・アイランドに1903年オープンしたルナパークです。Trip to the moon (月への旅行)というダークライド型アトラクションや、人工の火災を消化する様子をショーに仕立てたもの、あるいはトンプソン氏のシーニック・レイルウェイなど、現代にも通じるアトラクションが並びます。夜には50万球の電球を利用したイルミネーションも行われていて、まさに現代のテーマパークの先駆けとなる存在でした。一時は年間400万人もの人が入園、コニー・アイランド全体では1日に250万人もの人が訪れたこともあったようです(ルナパーク閉園後の1947年のことですが…)[2]。

ルナパークのイルミネーション

ルナパークのイルミネーション。画像は著作権切れのため転載可。ダウンロード元はwikipedia

コニー・アイランドのルナパークが大ヒットしたことから、世界各地に劣化コピーが作られます。遠く日本にもその評判は伝わって、浅草にもルナパークが作られました。このルナパークが評判を呼んだ結果、萩原朔太郎が「遊園地」という文字に「るなぱあく」とルビを振り[3]、それを受けて前橋の遊園地が「前橋るなぱあく」となって現代に残っています。前橋るなぱあくの語源は、コニー・アイランドにあるのです。当時の世界各地のコピーのうちで、現在でも有名なのは、オーストラリアはシドニーのルナパークです。こちらは現存していますが、やはりあくまで劣化コピーであって、見た目には同じくコニー・アイランドのスティープルチェイス・パーク創始者のジョン・ティルユー(ややこしいのですが、コニー・アイランドにルナパークができたきっかけは彼にあります)を模したかのような笑い顔のアイコンがあったり、中身は普通の遊園地だったりと、コニー・アイランドのルナパークとはかなり違った内容です。

 

さて、一世を風靡したルナパークは、当然アメリカ国内にも多数存在していたのですが、それらの多くは1930年の世界恐慌に端を発した不況のあおりを受けて、第二次大戦前後までにはほぼ消滅してしまいます。発動機や電気、白熱電球を使う当時の遊園地には火事がつきものだったようで、不況下で大規模な火災が起きると、再建が困難になってしまう、というのも次々に遊園地が失われていった一つの原因だったようです。本家ルナパークも、火災が原因で1946年に閉園してしまいました。

少し時代は前後しますが、1920年代、ロサンゼルス近郊に観光農場「ナッツ・ベリー・ファーム (Knott’s Berry Farm: Walter Knottさんが営むベリー農場の意)」がオープンします。1940年代になると、お客さんを呼び込むために、ゴールドラッシュ時代のゴーストタウンをまるごと敷地内に移設します。これが評判を呼んだ後、1950年代になると大型遊具を設置するようになって、テーマパーク化していきます。このような、西部開拓時代やゴールドラッシュ時代、あるいはそれが廃墟化した後をテーマにするやり方は、その後のディズニーランドのフロンティアランド(日本のウエスタンランド)はもちろん、シルバーダラーシティやドリウッドなどで広く用いられるようになった手法です。

ナッツベリー・ファームのゴーストタウン

ナッツベリー・ファームのゴーストタウンエリアの1941年当時の様子。画像はflickrより。

一方、1946年、インディアナ州サンタクロースに、サンタクロースランドがオープンします(現ホリデーワールド)。こちらの設立経緯はちょっと変わっています。もともとサンタクロースという地名だった土地なのですが、そこに子どもたちがやってきては、サンタクロースがいないことにガッカリして帰っていく様子を見てかわいそうに思った地元の実業家が、やってくる子どもたちが楽しめるように作ったんだそうです。そんなわけで、年中クリスマスの雰囲気を楽しめるテーマパークとしてオープンしています。この概念もアメリカ中に広がって、各所に同じようなパークが作られますが、こちらは本家以外イマイチ大成せず、小さなテーマパークがいくつか残っている状況です。その一方で、シーズンイベントとしてクリスマスイベントは世界中の遊園地・テーマパークに定着しています。

アメリカのディズニーランド誕生以前は、こんな状況でした。

 

一方で、ヨーロッパには少し違った形のテーマパークが存在していました。

その代表例がデンマークのチボリ公園です。美しい庭園や建物と、それらと調和するように作られたライドアトラクションを有する公園で、1843年のオープン。かのアンデルセンが童話の構想を練ったとも言われています。その設立経緯には紆余曲折あるのですが、長くなるので置いておくとして、ここは市民の憩いの場と遊びの場が融合した、世界的に見ても珍しい「アメリカ型遊園地」の影響をほぼ受けていないテーマパークなのです。後に、倉敷チボリ公園(現在は三井アウトレットパーク)というフォロワーを生むことになります。

チボリ公園の美しい建物

チボリ公園の美しい建物。画像はwikipediaより。

 

ウォルトはディズニーランドの構想中に、チボリ公園を何度も訪れたと言われていますし、また、ナッツベリー・ファームも視察したと言われています。こうした要素を取り入れつつ、アメリカの大人も子供もワクワクできるような、入植時代、探検家たちの視点が楽しめるアドベンチャーランド、西部開拓時代、ゴールドラッシュ時代を味わえるフロンティアランド、そして未来を想像できるトゥモローランド。これらにおとぎの世界に入り込めるファンタジーランドと、現実世界とのつなぎ目にあたりつつも、きれいな町並みの中でショッピングや食事が楽しめるメインストリートU.S.A.をあわせて、1955年、ロサンゼルス近郊のアナハイムにディズニーランドがオープンします。

 

マッターホルン・ボブスレーと円筒型レール

ディズニーランドの開園当初、お城(アナハイムはシンデレラ城ではなく、眠れる森の美女の城)の周りのお堀を掘った分の土を、その横に高台として盛ってピクニックエリアにしていました。人の目を憚れる場所だったために、いかがわしいことをするカップルがあとをたたなかったため、その場所をアトラクションで置き換えようとする動きが始まります。ウォルトは、本物の雪を運んできて山を作り、ソリで滑り降りる、いわゆる「ロシアの山」の進化版を作ろうと考えていました。

しかしながら、その計画は雪をいかに運ぶか、という物流の問題から頓挫。その代わりに、1950年代初頭から作られるようになっていた、ワイルドマウス型のローラーコースターとソリのイメージを結び付けられないか、という検討が始まります。

ワイルドマウス型・ソリ型コースターのモデルとして検討されていたのが、19世紀末から20世紀初頭にかけて作られた「シーニック・レイルウェイ」。中でも、トンプソン氏の会社が設計した、チボリ公園の「Rutschebanen(ローラーコースターの意)」を参考にしていました。

チボリ公園のRutschebanen

チボリ公園のRutschebanen。画像はflickrより。

余談ですが、このコースターはサイドフリクション、ブレーキマンありという古の姿のまま現在も営業しています。そのRutschebanenが雪山の中を走り抜けるコースターだったため、ウォルトの雪山をソリで滑り降りるというアイデアと組み合わさって、雪山がテーマのローラーコースターを作ることに決まります。

さらに1959年の映画「Third Man on the Mountain」の撮影がてら訪れたスイスで、ウォルトはマッターホルンというテーマを思いつきます。こうして1959年、ファンタジーランドとトゥモローランドの間にマッターホルン・ボブスレーがオープンすることになるのです。

つまり、マッターホルン・ボブスレーがこのようなテーマになって、しかもローラーコースターになっているのは割と成り行きの要素が強くて、必ずしも何か強い意図があったわけではなさそうなのです。しかも、ファンタジーランドとトゥモローランドの間、ファンタジーランド側にオープンしたのも、必ずしもイメージやテーマあってのことではなくて、「その場所になにかアトラクションを作らなければならないから」作った、こちらもやはり成り行き要素が強いのです。

 

そんなマッターホルン・ボブスレーですが、テーマには比較的強いこだわりがありました。

途中でリファービッシュが入っていますので、当初から現代の形だったわけではありませんが、それでもマッターホルンや岩の洞窟はリアルに作られていましたし、最後はふもとの湖に着水という、そりを使ったダイナミックな山下りがイメージされていました。

従来のローラーコースターは、ローラーコースターありきで、そこにテーマを付加する形で設計されていました。このため、レールや付随する建造物は最初からあるものとして、是非を議論するまでもなく存在していて、その上で演出や建築物を追加していたのです。しかしながら、ディズニーの考え方は違います。最初からテーマありきで、テーマに合わせてローラーコースターを構築していったのです。

こうしたアプローチを取ると、そもそもレールはどうあるべきか、という点から考え直す必要が出てきます。従来は木製あるいは鋼製のベースの上に、平たい鋼の板でできたレールが敷かれていました。しかしながら、これを岩山を模した構造の中に作ろうとすると、どうしても岩山の一部を切り取って、ゴテゴテしたレールや周辺の構造物を設置する必要が生じます。そうなってはテーマぶち壊しです。しかも、鋼のレールに鋼の車輪を組み合わせて、車体も鋼という構成だと、走行時に轟音が鳴り響きます。それが岩山に反響すると、どう考えてもソリで滑り降りるイメージからはかけ離れてしまいます。

マッターホルン・ボブスレーの車両

マッターホルン・ボブスレーの車両。1978年から2012年まで使われていたタイプです。画像はwikipediaより。

音の問題をどうにかしようと考えると、柔らかめの車輪を使いたくなります。しかしながら、柔らかい車輪と平たいレールを組み合わせると、どうしても接触面積が増えて摩擦力による走行抵抗が大きくなってしまいます。また、仮に尖った形状の柔らかい車輪を使ったとしても、一時的に摩擦力は小さくなりますが、摩耗によってすぐに接触面積が増加してしまいます。そこで、レール側の形を変えて、レール断面を円形にすれば、車輪との接触面積を減らすことができます。

木製コースターの、レール周りの構造がゴテゴテしてしまう1つの要因は、アップストップと呼ばれる車両が飛び上がるのを防止する車輪や、横方向の脱線を防ぐための車輪が、それぞれ別のレール(あるいは構造材)に接しているためです。これらすべてが1つのレール上を走るようにできれば、構造は非常にシンプルになります。そのためにも、やはり上にも左右にも下にも等方的なレールが必要なのです。そうなると、断面は四角か円形に絞られてきます。上述の理由から車輪とレールとの接触面積を減らす必要があったため、必然的に円筒形のレールが採用されたのです。

加えて、音や乗り心地を改善するためには、レールの継ぎ目を正確に合わせる必要があります。旧来の木製コースターでは、木の板に薄い鋼板を貼り付けていますので、チリ合わせが難しかったり、走行の負荷によって変形したり、といった問題が発生します。これを鋼管にすることで、ズレがわかりやすくなって現場でのチリ合わせが容易になりますし、剛性が高いために乗り心地も向上、変形もしにくくなります。

さらに、車両は軽量化のために強化プラスチック製が採用されました。これによって、強化プラスチックの車両にナイロンまたはウレタンを巻いた車輪、円筒形のレールという、今日のスチールコースターの形が定まりました。スチールコースターは、まさにディズニーのこだわりが生み出したものだったのです。

それでも乗ってみると結構うるさいんですけどね。

Cedar pointのCedar creek mine train

マッターホルンボブスレーと同じArrow社が初期に製作した、Cedar pointのCedar creek mine train。一見木組みですが、その上に鋼管で作ったレールが乗っていることがわかります。れっきとしたスチールコースターです。

 

長いギャップとループコースターへの道のり

ディズニーはやはり特異点でして、その後もローラーコースター冬の時代が続いたことに変わりはありません。

しかしながら、このスチールコースターの発明は、新たなローラーコースター黄金期へとつながっていきます。

 

1970年代に入ると、ディズニーとともに円筒型レールを生み出したArrow Dynamics社が、戦後初のループコースター、コークスクリューを生み出します。

さらには同じ頃、”superdooperlooper man” (すんげぇループの人、くらいの意味)とも呼ばれる[4]アントン・シュワルツコフが、垂直ループコースターを製作し始めます。

こうしてローラーコースターは新たな時代へと入っていくのです。

 

参考文献

[1] “Coasters 101: An Engineer’s Guide to Roller Coaster Design,” Nick Weisenberger, CreateSpace Independent Publishing Platform (2012)

[2] “The Incredible Scream Machine – A History of the Roller Coaster,” Robert Cartmell, Amusement Park Books, Inc. and the Bowling Green State University Popular Press (1987).

[3] 「遊園地の文化史」中藤保則、自由現代社(1984)

[4] “Roller Coaster – Wooden and Steel Coasters, Twisters, and Corkscrews,” David Benett, Chartwell Books, Inc. (1998)

 

引用方法

引用時は、下記を明記してください。

Yu Shioji, J. Amusement Park (2023) 230008.

 

利益相反

本稿に関わる利益相反はありません。

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