Author: Yu Shioji (塩地 優) Article type: Commentary (解説) Article number: 230007
1910年代に、ジョン・ミラーによるアップストップの発明のおかげで大幅にスリルを増したローラーコースター。
1920年代に入ると、なんとアメリカ国内だけで2,000ものローラーコースターが作られたと言われる、ローラーコースターの黄金期に入ります。この時期には、もちろん傑作コースターもあれば、名も知られぬイマイチなコースターもあり。さらには、スリルを追求しすぎたがために現代では作れないような恐ろしいコースターもありました。ローラーコースターにも、「狂騒の時代」にふさわしい多様性がもたらされたのです。
そんな時代が訪れた歴史的・文化的背景と、黄金期に生み出された技術、そしてその黄金期が終焉に至った背景と2,000ものコースターがその後どうなったのかをご紹介していきます。
桟橋遊園地とトロリーパーク
この節の内容は、参考文献[1], [2]を参考に構成しています。
アメリカの遊園地文化は、1880年代から発展していったコニー・アイランドに端を発して、アメリカ全土へと広がっていきます。
コニー・アイランドは、ビーチのすぐ横にある複合遊具施設です。
コニー・アイランドが遊園地の典型例となったからか、あるいはビーチがレジャーの王様だったからなのか、各地の遊園地もビーチに作られるようになります。しかしながら、ビーチの少し内陸側は、大抵はすでに建物が立っていたり、地形的に使い勝手が悪かったりで、なかなか遊園地用地として適切な場所がありません。そこで、ビーチに桟橋を建設して、桟橋の上に遊園地を作るようになります。今で言う埋立地に近い感覚ですね。
「~ピア」と呼ばれる遊園地がその系統。まだモータリゼーションが起こる前、1900年代~1910年代にかけての時代は、休日のお出かけは街の近くのビーチへ、というのが定番だったようです。このため、この時代に大量の桟橋遊園地が作られた結果、アメリカではどこのビーチにいってもこの~ピアがある、という状態になります。
アナハイムのディズニーランド・リゾートにある、カリフォルニア・アドベンチャー内のピクサー・ピア(旧パラダイス・ピア)と呼ばれるエリアは、この時代、黄金期の遊園地を模したものなのです。「サイクロン」系を模して現代化したようなローラーコースターや、コニー・アイランドのワンダー・ウィールを模した観覧車などがあります。それを知らない日本人としては「何だこれ?」となりがちですが、アメリカ人にとってはノスタルジーを感じる存在です。
ちなみにアメリカの東海岸は、細長い砂州(バリアー島)が多くある地形もあって、良質なビーチが多くあります。北部のメーン州、南部のジョージア州あたりはビーチが少なめですが、それら以外のマサチューセッツ州、ロードアイランド州、コネティカット州、ニューヨーク州、ニュージャージー州、デラウェア州、メリーランド州、バージニア州南部(北部は砂浜はあるものの、湿地帯になっていて入れない)、ノースカロライナ州、サウスカロライナ州、フロリダ州はビーチだらけと言っても過言ではないほどの、一大ビーチエリアなのです。しかも、砂州の内側には水深の深いところもあって港も作れるからズルい。この砂州はメキシコ湾にまで続いていて、テキサス州にもビーチが幾つかあります。一方の西海岸は、海岸線付近が意外と山がちでビーチが少なめ。ですが、ワシントン州、オレゴン州、カリフォルニア州の西海岸3州のうち、海岸線の半分を占めるカリフォルニア州は、特に南部に広大なビーチを有しています。このようなビーチ大国だったことも、桟橋遊園地の形成に関係していると考えられます。
話を戻しましょう。この時代はビーチの開発とともに、鉄道の敷設が進んだ時代でもあります。
各都市には大量輸送の手段として、電化された鉄道が敷設されました。主に労働者を自宅から職場へと送ることを目的に敷設されています。そうすると、職場が休みの日には鉄道が使われなくなってしまって、収益が低下してしまいます。また、平日は平日で朝は都心方向、夕方は郊外方向のみが混雑してしまいます。それを補うために、平日に時間のある子供連れを狙って、その目的地を鉄道沿線に建設したのです。
その目的地の代表格となったのが、遊園地。一時は各鉄道事業者が、それぞれの遊園地を経営している、というほどに広まりました。
都市内の比較的短距離を結ぶ鉄道が「トロリー」と呼ばれていたため、こうした遊園地は「トロリーパーク(Trolley park)」と呼ばれますが、都市間を結ぶ長距離鉄道「インターアーバン(Inter urban)」も同様に遊園地を経営していました。トロリーパークと言われると都市内の小規模な遊園地のようなイメージをもってしまいますが、例えばケニウッド(Kennywood)のような郊外の大型遊園地もトロリーパークの1つに数えられます。
19世紀末にはじまる電化の進展も、遊園地の発展に大きな影響を及ぼしています。
1903年にオープンしたコニー・アイランドのルナパークでは、50万球もの電球を使ったイルミネーションが施されて、夜のニューヨークを彩ります。さらに1904年、ルナパークの向かいにオープンしたドリームランドは、100万球の電球を使用。例えば電球っぽい色のイルミネーションで人気の「SENDAI光のページェント」は60万球ですから、あわせて150万級というイルミネーションがいかに大規模なものか、おわかりいただけるかと思います。イルミネーションという概念もあまりなかった時代、これだけの電球で飾り付けられた建物群は人々に感動を与えたことでしょう。特に一旦イルミネーションを消して再点灯する瞬間は人気で、多くの見物客が集まっていたようです。
夜のイルミネーションが重要な集客要素の1つであることがわかると、各地の遊園地にもそうした要素が取り入れられます。特にルナパークが沢山のコピー遊園地を生んだことからも、遊園地がたくさん生まれた背景には電球の発明が大きく寄与していることがわかります。
また、アトラクションも電化されていきます。もちろん、発動機を使ったアトラクションはかなり後まで残るのですが、一方で電気で走るサード・レイラーと呼ばれるローラーコースターをはじめとして、様々な電化アトラクションが登場し始めます。
当時の遊園地の電気系統がどうなっていたのか定かではありませんが、例えば鉄道架線用の柱を利用して電気を引いてくることができれば、発電機や発動機への給油の手間も省けるようになります。電化によるコストの低下も遊園地増加の一つの要因だったのではないでしょうか。
本題のローラーコースターの話に入る前に、ここでは経済的観点からも、多数の遊園地が作られた背景を見ておきましょう。
この時代は1873年に始まる大不況を引きずってはいましたが、アメリカは移民による人口増加や、いわゆる「アメリカンドリーム」の時代だったこともあって、挑戦や冒険を行う人が多い時代でもありました。
1897年頃からは景気も回復局面に入って、1907年頃まで景気拡大が続きます。第一次大戦などによる一時的な踊り場を経ながらも、1920年代にはバブルも発生。投資余力の大きい時代が続いたのです。
こうした緩めの経済観もあって、また、現代と比べれば講じなければならない安全対策が少なく、設計・製造精度も低かったためにアトラクション設置のコストが低く抑えられていたこともあって、遊園地は魅力的な投資対象でした。こうしてアメリカ全土に数え切れないほどの遊園地が生まれ、そして遊園地が作られた結果、必然的に数多のローラーコースターが建設されることになったのです。
傑作の誕生
ここからさきは、参考文献[3][4]に従って話を進めていきます。
ジョン・ミラーの発明によってスリルと安全性を増したローラーコースターの設計・製造技術は、1920年代にはひとまずの完成を見ます。このあと、1950年代までは大きな進歩のない時代が続くのです。
建設技術の発達によって高さは30 mを突破します。さらにはファーストドロップの角度も50度を超え、現代のローラーコースターにも迫るスリルを獲得。
こうしてローラーコースターは「枯れた技術」となりつつありました。技術が成熟したことで、この時代にいくつもの傑作が作られることになります。
その代表格が、コニー・アイランドの「サイクロン(Cyclone)」(2020年現在、「ルナパーク(Luna Park: 19世紀からコニー・アイランドにあった初代とは全くの別物)」と一緒に、Zamperla社によって運営されています)です。
サイクロンは、バーノン・キーナン(Vernon Keenan)の設計で、一時ジョン・ミラーとともに働いていたハリー・ベイカー(Harry C. Baker)のベイカーカンパニーが施工。最高到達点は22.6 m, 落下角58.6°, 最高速度97 km/h(この数字は怪しい)と、現代のローラーコースターにも負けず劣らずな値。
コースレイアウトは、ひたすらキャメルバックとバンクターンを繰り返す形で、バンクターンで横に振り回されるような感覚ももちろんあるのですが、徹底的に上下動の楽しさにこだわったコースターです。現代でも名作コースターの1つに数えられる、スゴい出来のコースターがこの時代に生まれているのです。
他にも、ジョン・ミラー設計のケニウッド「ピッピン(pippin, 現サンダーボルト)」は1924年の製作。1968年に拡張されていますが、現存しています。これは大きなドロップを、地形とコースレイアウトを巧みに利用して隠しているため、予想できないスリルが得られることで有名なコースターです。
ウディ・アレン監督の出世作「アニー・ホール」で、ウディ・アレン演じるアルビーが住んでいた家の上に建っていた、コニー・アイランド「サンダーボルト(Thunderbolt)」は、同じくジョン・ミラーの設計で1925年製作です。
製造されたコースターの数が多いこともあって、この時代のローラーコースターは玉石混交ですが、今乗っても楽しめる、とびきりの玉も作られていたのです。日本産のコースターでこうした傑作に対抗できるようなものが作られたのは、1990年代になってからのことですから、アメリカのアミューズメントの先進っぷりには驚くばかりです。
行き過ぎたスリルとそれを支えた技術
看護師常駐のコースター
1920年代は、程よいスリルをわきまえた傑作コースターが数多く生まれた一方で、ひたすらスリルのみを追求したような恐ろしいコースターも生まれました。
そうした恐ろしいコースターを設計したことで知られているのが、ハリー・トレイヴァー(Harry G. Traver)です。
中でも有名なのが、カナダのクリスタルビーチ(Crystal Beach)に設置されたサイクロン(Cyclone)。この時代にしては珍しく、木組みではなく鉄骨を用いたコースターで、高さは29 mとそこそこながらも、最大荷重4GというなかなかなGがかかります。
しかも、見た目に「おかしい」とわかるほどにコースがねじれにねじれまくっていて、大きく左右に振り回されるであろうこと間違い無しのレイアウト。終盤にはタイトなS字カーブを繰り返していますので、この時代のレール敷設技術を鑑みれば、軽い頭痛では済まないレベルの振り回しがあったと思われます。
実はこのコースター、後にも先にもただ一つの、看護師が常駐したローラーコースターとしても有名です。応急処置ができるスペースも併設していて、具合の悪くなったお客さんに対応していたんだとか。とはいえ、看護師が常駐し始めたのは、お客さん対応というよりも保険料が問題だったようです。あまりにも恐ろしいコースターとして有名になってしまったがために、遊園地が支払う保険料がやたらと高くなってしまった。そこで、看護師を常駐させることで保険料を引き下げてもらった、というのが真相のようなのです[5]。
とはいえ、やはり「現代では絶対に作れない」と言われるほどのスリル(というか横揺れ?)であったことは間違いありません。1927年に建設されたコースターなのですが、鉄骨を使っているにも関わらず過剰な負荷で維持費が高く、また、保険料が高いこともあって1946年には取り壊されてしまいます。
ボストンのRevere BeachのLightning, ニューヨーク近郊のPalisade’s Amusement ParkのCycloneという兄弟機も作られましたが、それぞれ1933年、1934年に取り壊されてしまいました。
そんな恐ろしいコースターを作ったトレイヴァーですが、人柄を追ってみると面白いことがわかります。彼はスリルが好きでしかたなかった……わけではなさそうなのです。
そもそもトレイヴァーは、貨物船の乗組員をしていた時代に、船のマストの周りをぐるぐる回るカモメを見て、後に日本では「飛行塔」と呼ばれるようなアトラクションを思いついたことで、アミューズメント業界へと転身します。このため、彼はローラーコースターだけでなく、様々な大型遊具を開発しています。日本で言えば土井万蔵氏[6]にあたるような方でしょうか。
中でも有名なのはTumble Bugと呼ばれるライド。中心から電力供給されるモノレール型パワードコースターで、ライドがコーヒーカップ状になっています(回転はしません)。ライドが通常の前向き乗車タイプであれば、日本の遊園地でも見かけますよね。ちなみに、子供向けの日本のものと比べると、かなりスピードが速いです。
ファミリーライドを多く手掛けたトレイヴァーにとって、彼が作った中でお気に入りのローラーコースターは、コニー・アイランドのサイクロンをリスペクトした、Long BeachのCyclone Racerだったそうです。
決してスリルだけを追求し続けた人ではなかったのです。にもかかわらず、上記のような異様なまでのスリルを誇るコースターを生み出したのには、いくつか理由がありそうです。
1つは、遊園地側からの要請。話題とお客を呼ぶためには、遊園地はよりスリリングなローラーコースターを設置する必要があります。このため、遊園地は可能な限り怖いコースターが欲しい。一方で、トレイヴァーにはそれを作るアイデアとノウハウがあった。ニーズとシーズが合致してしまったがために生まれたコースターだったのではないでしょうか。
もう1つの理由は、トレイヴァー側がシーズとしてもっていた新技術です。その技術を活かすには、ひねりの多いレイアウトにならざるを得ませんでした。技術の良さを活かしたかった、というのもクリスタルビーチのサイクロンが生まれたきっかけの1つでしょう。
車両技術の進化
その技術は、トレイヴァーが用いた車両に使われています。
実は、車両はトレイヴァーのオリジナルではなくて、共同でローラーコースターを製作することも多かったフレデリック・チャーチ(Frederick A. Church)の作。チャーチは、トーマス・プライアー(Thomas Prior)と共同で(トーマスの死後はFrank Prior)ローラーコースターの設計事業を行っていました。その施工をトレイヴァーの会社が請け負うことも多かったのです。ちなみにチャーチのコースターは、どちらかというと楽しさとスリルを両立するバランス型。程よいペースで程よいエアタイムや程よい遠心力を組み合わせて楽しませるタイプだったようです。
さて、そのチャーチの車両は急カーブとキツいひねりに対応できる仕様になっていました。ちょっと込み入った話になるのですが、現代では当然のように使われている重要な技術ですので、ここでしっかりとご説明しておきたいと思います。
まずは電車のような、車台の下に車軸があって、そこに車輪が付いている車両で、かつ車両の前後に車軸があるような車両を考えましょう。このような車両で、思いっきりバンクのついたカーブを曲がるなど、レールにひねりのある動きを取り入れるとどうなるでしょうか。レールはねじれていても、車台や車軸はねじれることができませんから、少なくとも1つの車輪がレールから離れてしまいます。
ただ1輪がレールから離れるだけなら、乗り心地が極めて悪くて、脱線の危険が高くて、走行抵抗が高い、程度の問題で済みます(これだけでもかなり大きい問題ですが…)。が、前回の記事でご紹介した通り、ローラーコースターには車輪が浮き上がるのを防ぐための、「アップストップ」という、レールを下から挟み込むような車輪があります。このため、車輪はレールから大きく離れることができません。そうした車両が大きなひねりのあるコースを走ってしまうと……、コースが壊れるか車両が壊れるか、はたまた衝撃を伴って急停止するか、といった事態に陥ってしまいます。
ではどうすれば良いのかというと、1つの解決策は車軸にねじり方向の可動軸を追加することです。車軸自体が左右にねじれるように動けば、車輪もアップストップも、レールから離れることなく追従することができます。
車軸に可動軸を設けられれば話はシンプルなのですが、この当時のコースター(現代の木製コースターを含む)にはもう1点、話を複雑にする要素があります。これも前回の記事で簡単に触れているのですが、当時のコースターは車両安定性の向上と、カーブでの回転モーメントによるレールや枠組みへのダメージ低減を目的として、車両の重心が低くなっています。このため、場合によっては車輪が車両脇に付いていて、車軸がない場合もあるのです。
車軸がないと、可動軸を設けることはできません。車輪が上下動できるようにすれば、レールから離れなくはなりますが、荷重がかからないのであまり意味はありませんし、平たいレールを使う木製コースターでは車輪が片当たりしてしまって危険な状態となることに変わりはありません。
そこでどうしたか。車輪を前輪だけ(あるいは後輪だけ)にしてしまったのです。車両に前輪と後輪を共につけるから、レールの前輪が接触している部分と後輪が接触している部分でねじれ具合が違うために、1つの車輪が浮いてしまいます。それならば、前輪または後輪を無くしてしまえば良いのです。それだと車両が倒れてしまう……と思われるかもしれませんが、前後の車両と連結されていますので問題ありません。例えば後輪だけを設けるなら、前側の連結部は前の車両の後輪で支えられるので、倒れることはないのです。
このような方式(通称トレイラー方式と言います)を採用した場合、前輪だけを設ける場合は一番うしろの車両、後輪だけを設ける場合は一番前の車両をどう支えるかが問題となります。簡単に処理する場合は、前の車両(もしくは後ろの車両)に前輪・後輪を共に付けてしまいます。ですが、それだとトレイラー方式の良さを活かしきれていません。良さを活かすためには、一番前または一番うしろに、車軸を1つだけ持ったコンパクトな車両を付ける必要があります。その車両に長さがなければ、倒れる心配はなくなります。
チャーチの車両がどのように末端処理をしていたのか、情報はないのですが、少なくともトレイラー方式を採用することで、車両がレールのひねりに対応できるようにしていたようです。連結部は上下左右の動きに加えて、ねじれ方向に自由度を持たせることで、ひねりに対応できるようになります。この当時はフレキシブルホース(金属製のジャバラのような見た目のもの)を採用しているものが多かったようですが、現在は複数の関節をもたせたり、ボールジョイントにするなどの工夫で対応しています。
こうしたトレイラー方式と呼ばれる車両は、現代のローラーコースターにはなくてはならないものです。カーブでは当然のようにひねりが入りますし、コークスクリューのようなひねりループエレメントも多く存在します。現代のローラーコースターはトレイラー方式なしには成立しないといっても過言ではありません。
ローラーコースターに乗車される際は、ぜひ車輪の位置に注目してみてください。古いローラーコースターや特殊なものでない限り、前輪または後輪しかなくて、しかも前か後ろには車輪だけが付いているミニ車両が付随しているはずです。
ブームの終焉
ローラーコースターのブームは、1930年頃から急速に終焉へと向かいます。
最大の要因は、もちろん世界恐慌です。ここまで何度もの不況に耐えてきた遊園地業界も、世界恐慌には耐えられませんでした。遊園地がバッタバッタと潰れていく中、大型の新規投資をすることは容易ではありません。それまでのように、雨後の筍のごとくローラーコースターを作ることはできなくなってしまったのです。
遊園地業界が斜陽産業へと移り変わっていったのにはもう1つ要因があります。モータリゼーションの進展です。1908年のフォード T型発売によって始まったモータリゼーションは、1930年代に入ると都市部にまで波及します。その結果、まず鉄道会社が窮地に立たされます。鉄道会社が次々に潰れると、鉄道会社が保有していた遊園地も買い手がつかなければ潰れてしまいます。さらに、車を得た人々の休みの日のお出かけ先は、それまで鉄道によって1次元+αに制限されていたところから、2次元へと広がります。必ずしも鉄道の通っている遊園地に向かう必要がなくなってしまったのです。そうして新たなお出かけ先を見つけた人々からは、遊園地は「ダサい」ものとみなされるようになってしまいます。このようにして遊園地ブームが去った結果、親会社が倒産した遊園地に買い手もつかなくなって潰れていってしまったのです。
ローラーコースター側にも、遊園地が「古くてダサい」ものだという印象を拭いきれない問題点がありました。スリルは行くつくところまでいって人間の体の耐久力が問題となる状況。それ以上のスリルは生み出しようがなくなってしまいました。また、変わり種も初期にやり尽くされてしまっていて、新たなアイデアも生まれません。こうして新しく作られるローラーコースターも代わり映えのしないものとなってしまって、顧客を呼び戻すだけの駆動力は得ることができなかったのです。
1930年代以降、ローラーコースター冬の時代は1960年代まで続きます。
その過程で、それまで木製コースターしかなかった世界に、スチールコースターを生み出すという偉業を、あのディズニーランドがやってのけます。次回は、そのお話です。
参考文献
[1] “The Amusement Park – 900 years of thrills and spills, and the dreamers and schemers who built them,” Stephen M. Silverman, Black Dog and Leventhal Publishers (2019).
[2] “The American Amusement Park,” Dale Samuelson, Wendy Yegoiants, Motorbooks International (2001).
[3] “The Incredible Scream Machine – A History of the Roller Coaster,” Robert Cartmell, Amusement Park Books, Inc. and the Bowling Green State University Popular Press (1987).
[4] “Roller Coaster – Wooden and Steel Coasters, Twisters, and Corkscrews,” David Benett, Chartwell Books, Inc. (1998)
[5] “Ultimate Rollercoaster.com” https://www.ultimaterollercoaster.com/coasters/history/ (2020年8月13日閲覧)
[6] 「遊園地の文化史」中藤保則、自由現代社(1984)
引用方法
引用時は、下記を明記してください。
Yu Shioji, J. Amusement Park (2023) 230007.
利益相反
本稿に関わる利益相反はありません。
コメント